キラキラ

目をあてたくないほども一部。クローゼットの最果てから更新中。

共感されたい病

どんなに他人にそんなことないよ、きみは悪くなんてないよって言われたくても、望んでも期待するとこまでは自由だけど、そんな自分勝手な利己的な部分を他人に裁かれようっていう気持ちは狡いという以前に、他人が介在すれどしない二者間に引き入れる真似を自分からしたらだめなんだと思う。そんな自分が言われたいだけの、自分のためだけの表現があってもいいと思う。でも、そんなふうに地球が味方してくれるかなんていうのは風向きとか天気とか隣にいる君くらいにわかりえないものだから、運任せみたいだからやるだけタダではあるけど、意味なんてないよ。なんか勝手に傷ついてしまうし、怒っちゃうじゃん、イライラしちゃうでしょ。自分の機嫌くらい自分でとることができないという状況にまで思考を巡らすことができないうちに他人に矛先が向いてしまうし、自分だけで完結しました、はい、おわり!ってできたらいいけど、攻撃しちゃうこともあるし、虐げちゃうこともあるから。そうすると痛いし、ちゃんと視覚的に赤くなくても血が出るでしょ。とわたしは思うから感情的になりたくないなーとあくまで心がけ部分だけど心に留め置いておいています。
っていう客観性や冷静さに包んだ建前よりもそうであってもイライラするんじゃぁあああぁああああああああみたいなちゃぶ台を根っこから引き剥がして引っくり返すくらいの熱量をどこかにぶつけてしまいたい日もあるよなあっていうのが生きていく上で余裕でよくよくよくよくある事象なんだよな。だから他人ぶっ殺そうぜってなる前にわかるよわかるよ教を社会に立ち上げたいですね。共感されたいって人間の社会性に基づく生活の上にできた特徴なんだろうなあと思う。そうされたくて当たり前の自然な感情なのではないのかな。それをもともと獲得しなかったり諦めたりっていう人になりたくてなりたくてしょうがなくってもがくっていうもはや使命なのではっていうはなし。