キラキラ

目をあてたくないほども一部。クローゼットの最果てから更新中。

わたしだけがすきとかそんなの嫌だから一生片想いなまんまのこの世界で恋をすることはないだろう。同じ容量や分量ではないけど好きっていう言葉の上澄みだけおんなじだからお付き合いしましょうなんて嫌。君の方がわたしのことわたしより好きだっていう確約がないとこわくて一緒になんていられない。期待するのも君を押し潰して殺しちゃうからだったら期待しない距離感と要領守った指先も触れない位置からすきだって叫んでいる。君に聞こえてわたしに触れないここが一番掠めたぬくもりにもどかしくなったり好意だけは伝えて証明するだけの行動が伴わなくてもいいやって思える。みんな付き合ったり別れたり、伝えたりしまいこんだりできる恋愛の中で孤独に呼吸する。触っても遠いし、空を切って眼前に、盲目的に衝動的に光って見える。からわたしは恋をしない。

愛されたいなー愛したいなー。なんもなくても生きてるだけですごいんだよーって甘やかしたいなー。ねえ、生活のなかでどれくらい自分に満足できてる?ほんとはわたしは全然自分に満足なんてできてないし、生きてるだけで酸素消費するだけのゴミだなとかって思うときあるよ。だけどさ、自己愛軽視したらたぶんほんとに生きるのを放棄して死んじゃう自信しかないからわたしだけはわたしのこと好きだよっていい続けたいし、言うし、周りの人のことすごいねって褒めてもそんなことないですって謙虚なこと言えちゃう不器用さをどうして?そんなことないよっていうエンドレスなトークで相手をどろどろに甘やかして自己肯定感の沼に引きづりこんで自信をつけさせたい。いまもってるものがどれくらいすごいことかきっと君は知らないでしょ?あのね、数字なんて選ばれなくたって君がここまできたプロセスをわたしは知りたいし、どんな思想や場所で生きてきたのかなってわたしは聞きたいんだよ。皮膚よりも肉。ああだからわたしは人と話すことがやめられない。全ての人間を言葉を交わすまではつまんねえやつだろって思ってて、でもしゃべると話が上手とかじゃなくてきみだけが今までやってきたこととか君が語る君がわたしはみれたらそれだけでわたしの一部になるなと思っていて、君が傷ついたらちゃんといたみを感じられるから。きみがみたい。

からふる

現在進行形で、前から思っている髪の色が黒以外の人ってちょっとこわいなという偏ったイメージが私の中の認識としてある。何がこわいかっていうのは喋ったときなんかヤンキーみたいな態度や言葉だったとか、パリピみたいだったとか自分の存在している社会的グループとは違うからっていうのすら確認できたわけではなくて、ただ見た目で派手だなーと思うところから派生したこの人反社会人間なのではとかとにかく自分とは会わなそうとかっていう想像で完結して他人をみているということ。証拠なんていらないのですよ、◯◯ぽいって、ことだけで想像は飛躍するし、対処法は自己防衛できればっていう内的なものになる。
でも、最近わたし自身髪の毛をどピンクに染めて大満足で生活しているのだけど、まあもともと友達ほぼいないからかもしんないけど他人に敬遠されているぞっていう気持ちにはならない。わたしの考えすぎだったのかなー?まあそれはいいとして、結局な話は見た目で人を判断してしまう防衛は本能的なものとか固定観念とかなのでなかなかなおらないけど、髪の毛染めるのだって、別にヤバイ奴になりたいっていう自己顕示欲からくるものってだけではなくて(いや、そういう人もいるかもですが)ただ大好きな人の真似とか今に至るまで吸収してきたものが目に見える形で表出しただけじゃないのって思うようになった。ただこの色がすきとか、大学生になったからとかそんなかんじ。わたしもすきなアーティストに感化されておんなじカラーになればちょっと楽しくなったり、元気出るかなーっておもった。そして、染める前より自分を鏡に映す度幸福を得られるようになった。ただそれだけで、黒いときのわたしと中の方が著しく変化したわけではない。わたしの中ですきが渦巻いているだけ。広義の意味では流動しているけど、相も変わらず気は小さいままだし、一人で行動できるけどその実不安ばっかだし。わたしとしてはかなしいけどなかなか性格とか人格とかはすぐには変われないよな。

だけど、未だにやっぱり黒髪の人じゃないとその人よりこわいと思うからもはや黒だとか云々じゃなくてただわたしの他者恐怖の度合いが違うだけじゃんと思う。たぶんこわいとおもうのが強いか弱いかみたいなかんじー。って考えるとこれ書いた意味あるのか?

わかり合えなくたっていいよー

意味わかんなくてオッケーってわたしと相手との共通認識としてずっと根底にあって、デフォじゃねと思うのですよ。
最近読んでる小説で自分がだれかにとって脇役でありながら何者かでいたい女の子が他人と照らし合わせながら発想を独走させながら模索していく物語なのだけど、主人公と文学少女の友人を見てたらいろいろ思うことがあって。二人の思想もそこに行き着くまでも全然かすりもしないんだけど、仲良くなれるのってわたし的には全然あることだと思う。趣味がおんなじじゃなくても趣味に対する価値観が同じなら上手くいくっていうのとこれって同じことだと思っていて、お互いの独走に対して全然違う感覚を持ってるのは生きてきた環境も教育も情報も得てきたものが違うのだから当然でそれをお互いわかってて相手の独走ぶりをみてても思ったことは言っても多少放任できるくらいのほうが平和だなと思う。相手にわかってほしいって感情はもちろんあるけど、別に同じ気持ちだとか、わかるとかなくても一緒にいたり、知り合うこととか話し合うとかはできるよなー。そしてそれだけで相手との関係性を十分だなと思うのですよ。わたしの言ってることも考えてることも理解はできないかもだけど、わたしはこんなことを思っていますよって言える関係性を築きたいよね。そしてそれでもいいよねって思う。

共感されたい病

どんなに他人にそんなことないよ、きみは悪くなんてないよって言われたくても、望んでも期待するとこまでは自由だけど、そんな自分勝手な利己的な部分を他人に裁かれようっていう気持ちは狡いという以前に、他人が介在すれどしない二者間に引き入れる真似を自分からしたらだめなんだと思う。そんな自分が言われたいだけの、自分のためだけの表現があってもいいと思う。でも、そんなふうに地球が味方してくれるかなんていうのは風向きとか天気とか隣にいる君くらいにわかりえないものだから、運任せみたいだからやるだけタダではあるけど、意味なんてないよ。なんか勝手に傷ついてしまうし、怒っちゃうじゃん、イライラしちゃうでしょ。自分の機嫌くらい自分でとることができないという状況にまで思考を巡らすことができないうちに他人に矛先が向いてしまうし、自分だけで完結しました、はい、おわり!ってできたらいいけど、攻撃しちゃうこともあるし、虐げちゃうこともあるから。そうすると痛いし、ちゃんと視覚的に赤くなくても血が出るでしょ。とわたしは思うから感情的になりたくないなーとあくまで心がけ部分だけど心に留め置いておいています。
っていう客観性や冷静さに包んだ建前よりもそうであってもイライラするんじゃぁあああぁああああああああみたいなちゃぶ台を根っこから引き剥がして引っくり返すくらいの熱量をどこかにぶつけてしまいたい日もあるよなあっていうのが生きていく上で余裕でよくよくよくよくある事象なんだよな。だから他人ぶっ殺そうぜってなる前にわかるよわかるよ教を社会に立ち上げたいですね。共感されたいって人間の社会性に基づく生活の上にできた特徴なんだろうなあと思う。そうされたくて当たり前の自然な感情なのではないのかな。それをもともと獲得しなかったり諦めたりっていう人になりたくてなりたくてしょうがなくってもがくっていうもはや使命なのではっていうはなし。

能力上げよりも先に言葉ばかりを吐き出している。吐き出すという行為自体がもはや生活の一部でやらないと生きていけない、ライフサイクルのひとつ。わたしは、わたし、わたし、はだし、、、、、
言い訳ばかりが口をつく。わたし以外を見てわたしと比較している、同じことやってもエンタメにすらなれないのは、もう同じものはいらない、唯一でないと、飽和しちゃう、時代も世間もわたしに追い付かないそれがわたしが認められない理由ならいいのに。いつだって願望ばっか吐き捨てる、汚物みたいなこのゴミ箱を覗きにくる酔狂な奴はいない。だってつまんないものに時間割くやつなんていないだろ。ネットサーフィンしてたほうがずっとまし。泳いでたらなんか面白いもの見つかるかもしんないし。そう、だから歩き続けなければいけない。疲れても、爪が割れても、皮膚が裂けても、血が出ても、転んでも、足が動かなくなっても、、、だよ。それ以外に道はないね。やれることはないね。