キラキラ

目をあてたくないほども一部。クローゼットの最果てから更新中。

消えない痕

物事は一方向からみてそのすべてをわかったような気になるとすごく楽だ。という考えすら一つでしかないのではないかということに困惑している。
生まれたときから選ぶことができないことがあって、それに対して不幸だと嘆くことはおかしいのかな。なんか前も書いたかもしれないけど家族は選べないもののひとつだとおもう。子どもは親を選べないとは聞きあきるほどに使い古された言葉だけど、親だってそう。ただ大体の場合子どもは親に愛されたいから、親の方の気持ちから逃げられない。いつか力が逆転することはあれど、距離をおいて時間をかけて気持ちを真っ直ぐに伸ばしたところで人の恐怖体験は簡単にはなあなあにならない。痛いことは痛いまま見えなくなって傷すら残らなくても刻まれたところからどんどん根が下へ下へとのびていく。

私の父親は転勤族だったりかと思えば3,4日に一度帰ってくるだけで、ほとんど家にいないことの方が多かった。帰ってきても、仕事で疲れていてお酒を飲んでテレビをみていたり、私や弟がちゃんと生活をしていれば怒らないがとにかく怒ると怒鳴るし、物にあたったり叩かれることもしばしばだった。だから父親を怖いと思っていたし、口答えはできなかった。そうじゃないときは優しいときもなくはなかったのだけど。そうだから父親には言いたいことも言えなくなって、私の容貌の矛先はいつも母親に向いていた。共働きで忙しいため、母親も疲れて帰ってきては家のことをすべて回していた。
中学生くらいから私はできていた勉強ができなくなって、勉強がきらいだった。部活には必ず入らなければいけない学校で選ぶほどないから、友達がいるバレー部にはいった。そこでも校長や先輩と上手くやることができず、そいつらが死ぬほどきらいだった。まあ今もだけど。殺したいほど。だから、気持ちは不安定で家でも母親に勉強や部活のことで共感してもらえないと私の気持ちをわかってくれるまで泣きながら叩いた。いけないことだとはわかっていたし、大学生になるまで私のやっていたことが暴力だと認識することができなかった。したくなかったの方がただしいかもしれない。私は悪くないと思いたかった。私はたぶん誰かに私の気持ちをわかってほしかった。頑張る人間ばかりが評価されて私は生きてるだけで息苦しくても上手くできない私は誰も認めてくれなかった。言葉にしてくれなかった。私が喚くと当然父親もいれば私のことを叱るのでずっと家にいることの方が少ない人が私の何を知っているのかわからなかった。だから家は混沌としていた。その後学校の人間関係も上手くいかなくて、自習課題をそれなりで提出したら、担任に前に立たされ人間の目に敏感になり不登校になった。その頃、学校に来てない奴が外に出るのはおかしいと思うのもあり、家の中だけが私の領域になった。母親も最初は心配してくれて私との時間をとってくれていたが次第に仕事に元のように仕事に行くようになった。父親は私のことを怒らなかった。そしてそれは私が今フリーターになると言い出しても怒らなかった。私に興味がなくなったのかもしれないが、それくらいが私は丁度よかったのだ。

父親は変わったが、それでも私はあの頃を思って父親に恐怖を抱いている。変化しても本当に叱らなくてもずっとずっと怖いのだ。
だから、一度あったことが次ないと言い切れなかったら、ずっと恐怖を抱くのなんて当たり前だと思う。だから、傷は消えないし、記憶が改変させても私は忘れられないことに縛られて怖がって生きている。